秋田県は美郷町、湧水で有名な六郷にゴマシオキッチンというとっても素敵な喫茶店がありまして、秋田にいる頃から大好きで、また上京してからも帰省のたびに立ち寄らせてもらっていました。
ゴマシオキッチンさん
http://gomashio-kitchen.net/
秋田県内情報誌かなんかで見つけて行ってみたんですけど、お店の前に掲げてあった黒板に「コーヒーと恋愛がともにあればいい」なんてサニーデイサービスの歌詞が書いてあってここは間違いないなと確信したのでありました。
先週末に大曲花火大会を観覧しに秋田に帰省した際に、奥さんと一緒にお邪魔してマスターといろいろとおしゃべりしてきました。僕の奥さんもゴマシオさんのファンであります。
そのとき、マスターが重要な指摘を2つしたので忘れないようメモしておこうかと思います。
1つは、「マスター手書きのコースターが卑猥です」みたいな話を私の奥さんがしたとき。
(下の画像参照のこと)
「たいていの女の子は卑猥なことよろこびます」みたいなことゆってて、あー、この人は本当に楽しい人だww と思ったのであります。いやほんと、真理。
もう1つは、常連さんがとてもいい人たちばっかりでとても素敵ですね、なんて話をしていた時なのだけど、マスターが
「言葉は悪いかもしれないけれど、本当によくきてくれる常連さんはどこかガラクタみたいなところがあるんです」みたいなことをゆっていて、確かに私もガラクタだわー(笑)、なんてめちゃくちゃ笑ったんだけど、あとあと、とてもすごいことをおっしゃっている、と思ったのであります。
これはですね、カルロ・ギンズブルグが指摘したような「欠けている物語の主」みたいなことと通じる話だと思ったんですね。
(参考)http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0056.html
物語の主人公や英雄はどこか欠けている。すでに傷を負っていたり、めちゃくちゃ強いけど決定的な弱点を持っていたり。けれども、欠けていることが主人公として語られるための条件である、みたいな。童話とか神話とか物語を思い返してみると確かにそう。桃から生まれてみたり、身長が一寸しかなかったり、じいさんにこぶがついていたり、アキレス腱が弱点だったり、隻眼・隻腕だったり、どこか不完全。
物語の主人公ではないけれど、六郷にある喫茶店はそんなガラクタみたいな人たちが心地がよくて集まるところなのだろうと思われます。
喫茶店のマスターと僕は年齢が一緒で、常連さんもその近辺の世代が多いと聞きましたけども、それなりに生きてきたので心や体に何らかの瑕疵を持っていて、抱えていたり乗り越えたりしていて、
それでも、まだまだ一人前にはほど遠いことを自覚せざるを得ない狭間にいる世代なのでしょう30歳前後って。そして、それなりに自分の弱さだとか負の部分と向き合ってきたことがある素直で弱くて強い人たちでもあると想像するのであります。
僕がゴマシオキッチンさんに魅かれる理由はもうちょっと単純で、いつかの昔に、こんな風なことできたらいいなーって夢想したことを実現してらっしゃって、ちょっとうらやましいし、何よりもコーヒーがおいしい。
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